神道

相原八幡宮 (アイハラハチマングウ)

座地

252-0141 神奈川県(カナガワケン)相模原市緑区(サガミハラシ ミドリク)相原(アイハラ)6-5-26

伝全文

  • (1件)

    “相原八幡宮の由来 (相原八幡宮氏子総代会掲示板から抜粋)”

    評価: 5.0

    投稿日:20160904

    訪問日:201608

    相原八幡宮(氏子約3000世帯)は市内緑区相原6丁目に位置し、相原地区の守り神として地域の皆様に親しまれております。
    八幡宮の行事は、例大祭・七五三祈願祭・元旦際・元始祭。初午祭等があり、各地区より選出された役員、氏子総代を中心に毎年盛大に開催されています。
    相原八幡宮の創建年代は不詳ですが、平安時代の中期(約1000年前)に小野妹子を遠祖とする小野孝泰が武蔵国の国司として下向の折、京の都より岩清水八幡宮を迎え祀ったといわれており、その子孫はこれを継承するとともに「横山党」という武士団を結成し、さらに国境の七国峠を越えて相模国に進出、この地に本拠を構えて「粟飯原」氏を名乗ったので、これがいつしか「相原」となって地名の由来とされていることや、平成8年に天寿を全うして倒れた御神木の大欅が樹齢600年以上と伝えられていることなどからも推察されるのです。
    相原八幡宮の祭神は、誉田別尊(応神天皇)ならびに牛頭天王(素盞嗚尊)の二柱で「地域の安泰・繁栄・厄除け」など多大な御神徳を拝受しております。
    祭神が鎮座まします本殿は、二間社流造(社殿が左右に分かれて両祭神をそれぞれ祀っている)という非常に珍しい形式のもので、寛政10年(1798)再建の棟札があります。
    明治期に入っては、外ノ御前社(子宝・安産の木花開耶媛神)および日枝神社(山と田畑の守護神の大山咋神)の2社が八幡宮に合祀され、次いで相原稲荷神社(倉稲魂神・猿田彦神・大宮能女神の3祭神)が八幡宮境内に遷座されたのでした。
    欅、杉、銀杏などの大木(何れも市の保存樹木に指定)に囲まれた境内には、御手洗舎や平成17年に新築の神楽殿などが建っており、鳥居・石灯籠(天保3年・1832)と並んで、明治初年の地租改正と地積簿編成に当ってこの境内が「相原1番地」と定められた【相原起番地之碑】があり、社殿の裏には境川※1の古称【高座川】の碑も建っています。(相原八幡宮氏子総代会掲示より)


    ※1相原伸司の主観 因果関係について考察:

    境川の源流・・龍籠山(現城山公園) 
    ○ 川尻八幡宮(石清水八幡宮の分霊を御神体)
    ○ 横山党本宗家(アイハラ)の所在地として雄龍籠山麓源流地帯に横山荘の中心があったと推察
    ○ 和田氏(三浦氏)との関係
      亀ヶ池八幡宮
      中世期以降武士の崇敬は殊に篤く、当時源頼朝の重臣侍所別当和田義盛が
      八幡宮の北に位置する横山城に向かう折り、武運長久必勝を大前にて祈願し
      御神助を得たという言い伝えがあります。
    ○和田の合戦1213年  
       ・和田家との関係 和田義盛と姻戚関係にある(横山党の本流横山太郎[横山時兼])
       ・横山党3千騎が和田氏に加勢する 
       ・合戦後 (相原[横山党]の領地は大江広元氏の所領となる。)
       ・1214年(建保 2)、大江広元氏は横山党の始祖横山義孝を祀った
        横山神社を八幡八雲 神社(八王子)の境内に創建しています。       
       ・なお、大江氏の4男季光(毛利元就始祖)は相模毛利荘に居住。
       ・また、三浦の乱の後、大江氏の子孫はその後、安芸吉田荘を相続(安芸毛利の始まり)。
        相原家は和田合戦後 大江氏と一緒に行動し、縁は深いものとなったと考察する。)

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