秋田 神道 祭神

挿絵

広国押建金日命ヒロクニオシタケカナヒノミコト安閑天皇アンカンテンノウ

神仏習合の時代に蔵王権現と同一視されたため、明治の神仏分離ではその多くが祭神を蔵王権現から安閑天皇に変更したとされる。

蔵王ザオウ系列

御祀りをしている施設一覧

秋田の新着口伝

  • 投稿者福島 靖
    (15件)
    投稿日:訪問日:
    ⛩菅原神社|男鹿市 “菅原神社”

    脇本城に訪れた際に撮影。

  • 投稿者MIZUNO
    (184件)
    投稿日:訪問日:
    卍頓信寺|横手市 “こちらのお寺は、近隣の比叡産神社や筏隊山神社とは関係が無いそうです。”

    こちらのお寺は、近隣の比叡産神社や筏隊山神社とは関係が無いそうです。

  • 投稿者H K
    (13件)
    投稿日:訪問日:
    ⛩七座神社|能代市 “縁起(秋田神社庁より…)”

    今から約1300年前の斉明天皇4年、阿倍比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴いた。
     この軍に対し、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)の蝦夷は『私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。「齶田の浦神」(七座山天神宮)に誓って申し上げる』と許しを乞うた。

     首長「恩荷(オガ)」のこの言葉に、比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走してねぎらい、七座神社には船一そうと五色の綵帛(しみのきぬ)を奉納して、この地域の平和と発展を祈願したという。(日本書紀)

     また、天正18年、豊臣秀吉が北條氏を討ち果した際、故あって織田信雄公が秋田に流された。

     その時、家臣浜田与衛門が主君のため一心に七座天神宮に祈願し、その御加護によって無事帰ることができたと伝えられている。

     藩主佐竹公も、代々七座神社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じている。

     明治15年、県社に列せられる。

     もともと、境内から米代川原に通ずる石段を上り下りしての参拝だったのは、阿倍比羅夫が船を繋いだという故事によるものであり、今なおその古ぼけた43段のきだはしは、信心の篤い崇敬者の「お参りの道」となっている。