秋田 神道 祭神

挿絵

菅原道真スガワラノミチザネ

平安時代に学問をもって朝廷に仕え、官位従二位・右大臣にまでなった偉人。しかし藤原時平(左大臣)に陥され、左遷先の大宰府で没する。死後は天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれている。

天神テンジン系列

御祀りをしている施設一覧

祭り・行事一覧(2023年度)

今 月内 容神社・寺院
9月29日(金)例祭⛩二井田八幡神社

秋田の新着口伝

  • 投稿者福島 靖
    (16件)
    投稿日:訪問日:
    ⛩菅原神社|男鹿市 “菅原神社”

    脇本城に訪れた際に撮影。

  • 投稿者MIZUNO
    (186件)
    投稿日:訪問日:
    卍頓信寺|横手市 “こちらのお寺は、近隣の比叡産神社や筏隊山神社とは関係が無いそうです。”

    こちらのお寺は、近隣の比叡産神社や筏隊山神社とは関係が無いそうです。

  • 投稿者H K
    (14件)
    投稿日:訪問日:
    ⛩七座神社|能代市 “縁起(秋田神社庁より…)”

    今から約1300年前の斉明天皇4年、阿倍比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴いた。
     この軍に対し、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)の蝦夷は『私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。「齶田の浦神」(七座山天神宮)に誓って申し上げる』と許しを乞うた。

     首長「恩荷(オガ)」のこの言葉に、比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走してねぎらい、七座神社には船一そうと五色の綵帛(しみのきぬ)を奉納して、この地域の平和と発展を祈願したという。(日本書紀)

     また、天正18年、豊臣秀吉が北條氏を討ち果した際、故あって織田信雄公が秋田に流された。

     その時、家臣浜田与衛門が主君のため一心に七座天神宮に祈願し、その御加護によって無事帰ることができたと伝えられている。

     藩主佐竹公も、代々七座神社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じている。

     明治15年、県社に列せられる。

     もともと、境内から米代川原に通ずる石段を上り下りしての参拝だったのは、阿倍比羅夫が船を繋いだという故事によるものであり、今なおその古ぼけた43段のきだはしは、信心の篤い崇敬者の「お参りの道」となっている。