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地域の新着口伝

  • 投稿者飛熊Z
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    卍海龍山 増徳院|横浜市南区 “海龍山 増徳院”

    横浜市南区平楽にある増徳院は高野山真言宗準別格本山のお寺で海龍山本泉寺増徳院という。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれているが、記録は残っていない。現在の元町プラザの場所にあったお寺である。古くから町の人たちの信仰の中心的存在であった。関東大震災後、昭和3年(1928年)に南区平楽103に再建され、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在、元町にあるのは、昭和47年(1972年)に再建された薬師堂のみである。
     幕末になって、この寺の墓所をペリーの意向で外国人の墓地に提供したことから現在の「山手外国人墓地」が誕生した。ペリー艦隊のミシシッピ号船員ウィリアムズの葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民たちは家や店から出てきて見物した。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘であった。しかし、日米和親条約によって伊豆下田の玉泉寺に米国人用墓地が作られることになり、ウィリアムズの遺体はこの3ヶ月後に玉泉寺に改葬されている。また、こうした太鼓は戊辰戦争には官軍に取り入れられている。
     新四国東国八十八ヶ所霊場(http://park3.wakwak.com/~kame/tougoku/tou88bun4.htm)では、第40番札所の増徳院の写真には現在のような唐門はなく、門柱があり、向かって右には「高野山真言宗準別格本山 増徳院」、左には「宗教法人 地福寺」と表札がある。最近になって門柱に代わり山門が建立された。
     昭和初期には横浜市の丘陵地ならこれ程広大な敷地境内を確保できたのだろう。現在では増徳院境内に地福寺本堂が建立されている。したがって、この1箇所で東国八十八ヶ所霊場の第40番と42番札所をお参りできる。
     本堂屋根には菊の花にしては少し違うような、それでいてタンポポの花のような飾り瓦が上がっていた。寺務所でお坊さんに聞いてみたが知らないという。気になる飾り瓦だ。
    https://4travel.jp/travelogue/10799598

  • 投稿者飛熊Z
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    ⛩お三の宮日枝神社|横浜市南区 “お三の宮日枝神社”

    祭神 大山咋命
    相殿 宇迦之御魂神
    境内社 道祖社、長者稲荷社、堰神社、庚神社、招魂社
    旧は山王社と称し、世俗お三の宮と謂う。寛文十三年(一六七三)九月十日吉田新田開拓者吉田勘兵衛尉良信、江戸山王権現の分霊を勧請創建したと云う。勘兵衛創立にあたり、地鎮のために大乗経一部を埋納したというが、民間訛伝して新田埋立の人柱となった「おさん」の霊をまつる所とするのは付会である。初めは、山王大権現又は山王宮と称せられ、山王の宮が転訛して、「おさんの宮」又は「お三の宮」と呼ばれるに至ったと云う。もと常清寺が別当であったが、元禄十三年角井式部尉藤原重勝神主となり以来現宮司十一代に及ぶ。明治八年村社に列し、昭和三年九月十一日神饌幣帛料供進社に指定された。昭和五十二年六月二十五日、宗教法人稲荷神社を合祀した。(神奈川県神社誌より)
    https://tesshow.jp/yokohama/minami/shrine_minami_hie.html

  • 投稿者飛熊Z
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    卍大慈山 玉泉寺|横浜市南区 “高野山真言宗大慈山瑠璃院玉泉寺”

    本尊は薬師瑠璃光如來木彫立像、高一尺七寸。傳に藤原末期の作で、震災後、新に本山より附屬されたものである。
    大慈山玉泉寺は、空賢(天正10年1582年寂)が開山となり天正5年(1577)に創建したといいます。東国八十八ヵ所霊場39番、横浜觀音三十三観世音霊場29番、、横浜弘法大師二十一箇所11番です。
    https://tesshow.jp/yokohama/minami/temple_nakamra_gyoksen.html

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