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H K

平成31年1月御朱印集めを始め…神社を巡るうちに今まで興味を持たなかったことに目覚めて、勉強中です。

会員見聞録

口伝の数/写真の数/御朱印取得数

  • 301件~
  • 101~300件
  • 51~100件
  • 11~50件
  • 1~10件
青森県
19件
岩手県
112件
秋田県
120件
山形県
173件
福島県
1件
栃木県
20件
群馬県
31件
埼玉県
16件
千葉県
5件
新潟県
282件

投稿した口伝

  • 投稿者H K
    投稿日:訪問日:
    ⛩諏訪神社|岩手県 “北上諏訪神社由緒(ホームページより…)”

    云い伝えによれば、大同二年(八〇七)皇紀第五十代桓武天皇の勅命により、坂上田村麻呂将軍が東夷征定の時、当地方の開発と産業の発展を祈願し、信濃の国諏訪大社建御名方神の御分霊をはじめ、その他時代とともに五柱の神様を勧請し建立されたと云われております。
     その後、慈覚大師が諸堂を建立し、御世第七十代後冷泉天皇の勅命を蒙り、源頼義、安部頼時を征定の際祈願をいたし、報賽によって社殿を修築されました。
     諏訪神社はもと、元宮の地(市内幸町地内)に鎮座しておりましたが、南部家二十九代藩主重信公崇敬篤く享保十九年(一七三四)に現在地に社領を賜りました。神仏混淆の時代は諏訪山護国寺と云い、一寺一社の社格でした。又、諏訪宮・お諏訪さんと称えられて各町村民の信仰が篤く、御神徳が益々昂揚されました。
     この地方に長く伝えられたという川岸剣舞(廃絶)は諏訪大明神のお告げによって、前九年の役で滅んだ黒沢尻五郎正任の亡霊を鎮める為に舞ったのが始まりといわれ、諏訪神社の神事芸能でありました。
     明治維新後は、社名を諏訪神社と称され北上市・和賀郡一円の総鎮守・氏神様として旧社格郷社に列しました。
     主祭神である建御名方神は、開拓の神・軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されています。風の神ともされ、諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もあることから武運の長久と国家安泰の神であり、御祭神名の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられます。
     広くは雨・風の守り神、水の守護神で五穀豊穣の神で生命の根源・生活の源を守る神であり、家内安全・健康長寿・商工業の繁栄・開運招福など、他にも合祀されている五柱の神をはじめ、末社の神々の強いみ光を仰ぎ御神徳は広大無辺であります。
     平成十九年御鎮座千二百年を迎え、奉祝記念大祭を厳粛に壮大に執り行われました。記念事業の一端として、社殿・社務所・参集殿増改築工事をし、神威あらたに北上市・和賀郡の総鎮守氏神として歴代尊崇変わる事なく、神威益々厳然として現在に至っております。

  • 投稿者H K
    投稿日:訪問日:
    卍身照寺|岩手県 “身延山最古の別院”

    身照寺の起源は応永年間(1394)に溯る。日蓮聖人の四大檀越のひとり南部実長公の裔・南部政光公(南部氏8代)は、南北朝時代に南朝につき、足利将軍に降るを潔しとせず、甲斐(現在の山梨県)の本領を捨て奥州八戸に引揚げた。政光公は実長公の教誡である法華経信仰を継承し、身延山久遠寺より日崇上人を招き、応永元年(1394)遠光山身照寺を建立した。日崇上人が遷化された後、成就院・日学上人(後に久遠寺9世)を招請し、応永3年(1396)9月25日、実長公の命日に開堂、円公山身延寺と号した。身延山最古の別院にして南朝の勅願寺と伝えられる。以後年月を経て昭和3年(1928)男爵・南部日実上人(実長公裔36代)が日蓮宗花巻教会を設立。同21年(実長公650遠忌)に中興開基南部日実上人、中興開山牛崎日導上人によって再興される。宮沢賢治の菩提寺としても有名である。

  • 投稿者H K
    投稿日:訪問日:
    ⛩七座神社|秋田県 “縁起(秋田神社庁より…)”

    今から約1300年前の斉明天皇4年、阿倍比羅夫が水軍を率い、蝦夷征伐のためこの地まで赴いた。
     この軍に対し、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)の蝦夷は『私たちは弓矢を持っていても決して敵対するものではない。「齶田の浦神」(七座山天神宮)に誓って申し上げる』と許しを乞うた。

     首長「恩荷(オガ)」のこの言葉に、比羅夫は彼等の降伏を認め、馳走してねぎらい、七座神社には船一そうと五色の綵帛(しみのきぬ)を奉納して、この地域の平和と発展を祈願したという。(日本書紀)

     また、天正18年、豊臣秀吉が北條氏を討ち果した際、故あって織田信雄公が秋田に流された。

     その時、家臣浜田与衛門が主君のため一心に七座天神宮に祈願し、その御加護によって無事帰ることができたと伝えられている。

     藩主佐竹公も、代々七座神社を信奉し、巡国のたびに詣で、掛軸や刀剣類を奉納し、社殿の造営にも多額の募財を献じている。

     明治15年、県社に列せられる。

     もともと、境内から米代川原に通ずる石段を上り下りしての参拝だったのは、阿倍比羅夫が船を繋いだという故事によるものであり、今なおその古ぼけた43段のきだはしは、信心の篤い崇敬者の「お参りの道」となっている。

得した電子御朱印