大阪 仏教 宗派・教義

浄土真宗 本願寺派
- 本山
龍谷山 本願寺
同一宗派・教義の寺院一覧
如来寺
- 豊中市箕輪2-5-22
徳乗寺
- 大阪市西成区千本中1-5-14
西勝寺
- 大阪市城東区鴫野西3-5-24
浄賢寺
- 大阪市東住吉区鷹合4-11-12
教善寺
- 大阪市西成区橘2-6-7
光明寺
- 大阪市住吉区杉本2-20-10
専光寺
- 大阪市旭区太子橋2-2-34
勝安寺
- 摂津市鳥飼中1-19-8
超願寺
- 大阪市天王寺区大道1-14-1
受楽寺
- 池田市豊島南2-3-10
紫雲寺
- 吹田市山田東2-18-17
長光寺
- 大阪市中央区島町2-28
真教寺
- 河内長野市三日市町1055-1
託明寺
- 池田市栄本町5-18
浄泉寺
- 大阪市大正区泉尾2-18-10
安養寺
- 松原市西大塚1-16-12
千里寺
- 吹田市千里山西1-37-42
西福寺
- 河内長野市小山田町1921
横枕寺
- 東大阪市横枕826
安楽寺
- 大阪市此花区伝法5-5-7
敬応寺
- 枚方市招提元町3-16-37
因念寺
- 堺市西区津久野町3-2091
浄願寺
- 大阪市旭区今市1-5-6
正福寺
- 吹田市南高浜町25-9
常光寺
- 吹田市岸部中3-21-14
大光寺
- 吹田市岸部中5-10-10
円勝寺
- 岸和田市大町271
長願寺
- 大阪市天王寺区上汐4-1-22
極楽寺
- 寝屋川市打上元町30-2
光秀寺
- 高石市千代田5-4-23
大阪の新着口伝
- 投稿日:訪問日:
安養寺|大阪市旭区 “安養寺の沿革”
安養寺の開創は古く、本来は大阪の南方村(現:東淀川区西中島)にありました。
明治40年柴島浄水場が拡張されることになり、当寺は境内地を収用されることになりました。その後当時のご住職正顕院日聞上人は、天神橋筋七丁目にお寺を移転し、新たに伽藍を建てられました。しかしそこも昭和2年に市電が通ることになり、またもや境内の約半分を収用されました。
ようやく落ち着いてきた頃、大東亜戦争(第二次世界大戦)がおこりました。国民皆兵が叫ばれる中、当寺の鐘楼も供出によりその荘厳な姿を見る事はできなくなりました。戦渦はますます激しくなっていき、当寺も昭和20年6月7日の大阪大空襲をうけ、一般の市民が一万人以上亡くなったといわれるこの戦禍により、全ての堂宇が焼き尽くされ、過去帳やお位牌もすべて灰塵と帰してしまいました。
さいわい御無事であられた日聞上人より法燈を継がれた本源院日学上人は、御弟子の日筧上人や、同じく疎開先で無事であった寺族とともに昭和24年5月、焼け野原となり、いまだ爆弾池などの戦争の傷跡の残る、現在の大阪市旭区高殿三丁目に仮屋を建てられ、時運の伸展を待つことにされました。
檀信徒の方の多大な外護により、戦後の厳しい時世の中にも関わらず、道場としての姿も戻っていき、昭和45年6月、ようやく寺運が拓け、本承院日筧上人はこの地に境内地半分と引替えに本堂庫裏を再建され、昭和46年7月4日、現在の堂宇が落慶されました。詳しくは、下記ホームページからご覧下さい。
http://www.eonet.ne.jp/~anyouji/index.html - 投稿日:訪問日:荒陵山
四天王寺|大阪市天王寺区 “日本が日本だで在り続けるのは太子さまのお陰”
難波宮があった頃…中国から入って来た船が目にしたのは、壮大な四天王寺の姿でした。横に広い「四天王寺式伽藍配置」は、日本が隷属する後進国ではない、という強いアピールになったそうです。 境内は大変広く見所満載ですが、日光東照宮の眠り猫と対を成す猫がいる門、探してみてください。