埼玉 仏教 宗派・教義

浄土宗
- 本尊
阿弥陀如来
- 本山
華頂山 大谷寺 知恩院
大龍山
安國寺 - 越谷市大泊910
光明山
徳性寺 - 草加市新里町691
澤水山
城恩寺 - 東松山市松山町3-6-11
究竟山
能満寺 - 幸手市惣新田一ツ谷332
聖徳寺
- 加須市上樋遣川5274
直場山
正光寺 - 羽生市北2-5-9
聖徳寺
- 越谷市北川崎18
日照山
西教院 - 越谷市西新井478
一行山
称名寺 - 春日部市備後東
瑠璃光山
三福寺 - 坂戸市小山259
大畠山
西光寺 - 春日部市大畑177
白龍山
林西寺 - 越谷市平方249
清水山
淨念寺 - 桶川市南1-6-11
正林山
林泉寺 - 越谷市増林3818
西方寺
- 川口市青木4-19-10
西福寺
- さいたま市大宮区桜木町2-516
龍光山
常福寺 - 戸田市中町2-4-11
干菜山
十連寺 - 上尾市今泉156
福聚山
慈眼寺 - 越谷市大泊104
誦経山
良光院 - 川口市青木4-15-3
宝鏡山
源光寺 - 北葛飾郡松伏町上赤岩1099
光臺山
惣圓寺 - 秩父市東町17-19
平源寺
- 蓮田市上平野596
無邊山
法性寺 - 羽生市上新郷5601
大眠山
浄円寺 - 富士見市諏訪2-2-41
西福寺
- 加須市弥兵衛488
亀通山
大長寺 - 行田市行田23-10
回向院
- 草加市高砂1-7-14
無涯山
深廣寺 - 久喜市栗橋東3-7-24
熊野山
東明寺 - 久喜市上清久162
埼玉の新着口伝
- 投稿日:訪問日:
氷川女體神社|さいたま市緑区 “氷川女體神社案内(案内板より)”
氷川女体神社は、県内屈指の古社で大宮氷川神社とと もに武蔵国一宮といわれてきた。社伝では、崇神天皇の 時につくられたと伝えられている。
祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穗津姫命が合祀さ れている。
大宮の氷川神社(男体社)、大宮市中川の中山神社(簸 王子社)とともに見沼とは深い関係にあり、祭礼の「御 船祭」は見沼の御上で行われていた。しかし、享保一二 年(一七二七)に見沼が干拓され、これに代わって出島で 「磐船祭」が行われるようになった。
この氷川女体神社には鎌倉、室町時代の社宝が多く、 三鱗文兵庫鎖太刀(国認定重要美術品)、牡丹文瓶子(県 指定有形文化財)、大般若波羅蜜多経(同)、神輿(同) は特に著名である。
江戸時代には社領五〇石が寄進されており、現本殿は 徳川家綱によって再建された。
また、境内の社叢は市指定天然記念物であるとともに 県のふるさとの森として保護されている。 - 投稿日:訪問日:
氷川神社|さいたま市大宮区 “氷川神社案内(参道案内より)”
氷川神社は、社記によると代五代孝昭天皇の三年四月未の日の創立と伝えられる。
当神社は、古くから歴朝や武将の尊崇をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、 「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。
古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇の とき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引きつれてこの地に移住し、氷川神社を奉崇し たと伝えられる。その後、聖武天皇(七二四~四九年)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、つい で称徳天皇の天平神護二年(七六六)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進さ れた。さらに醍醐天皇の延長五年(九二七)の「延喜式神明帳」には、名神大社として破格の月次 新嘗の社格が与えられている。
このほか、鎌倉時代には、治承四年(一一八〇)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が 寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長九年(一六〇 四)には、徳川氏より社領三百石が寄進され、また、文禄五年(一五九六)と寛文七年(一六六七) には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
その後、明治元年(一八六八)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定めら れ、明治天皇みずから親拝になった。同四年官幣大社となり、同十五年に本殿・拝殿などを改 造し、さらに昭和十五年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。
祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命。
例大祭は八月一日。そのほか神事の中で特に有名なのが十二月十日の大湯祭である。 - 投稿日:訪問日:
調神社|さいたま市浦和区 “調神社由緒(境内案内板より)”
当社は天照大御神、豊宇気姫命、 素戔鳴尊の三柱を祭神とする 延喜式内の古社にして古くより朝廷 及び武門の崇敬篤く調宮縁起に よれば第九代開化天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建され 第十代崇神天皇の勅命により 神宮斎主倭姫命が参向此の清ら かな地を選び神宮に献る調物を納 める御倉を建てられ武総野の初穂 米調集納蒼運搬所と定めらる。 倭姫命の御伝により御倉より調物 斎清の為め当社に搬入する妨げと 為、鳥居、門を取拂はれたる事 が起因となり現今に到る