小菅神社 奥社

鎮座地
〒389-2322
投稿日:訪問日:評価:5 “小菅神社 奥社”小菅神社は古来、戸隠山・飯綱山と併せて奥信濃三山と称せられた修験道の霊山、小菅山に有り、奥社と里社がある。
神社の創立は今より約一三八〇年前舒明天皇の代(六二九~六四一)に修験道の開祖、役小角が諸国遍歴折、当地に逍遥してその山容の秀麗と霊気に感じ絶頂に登って神人(素盞雄尊即馬頭観世音の化身)の霊告を受け、岩窟内に祠を建て馬頭観世音を祀り(素盞雄尊)、瞑目合掌していると熊野・金峯・白山・立山・山王・走湯・戸隠の七カ所の諸神が忽然と現れる。小角は霊感に驚喜して此の八神を岩窟内に祀る。
当時は神仏融合(混合)時代で小菅山の馬頭観世音の垂迹は素盞雄尊である。
このように、八ヶ所の権現をお祀りしたところから八所権現と称された。是が現在の奥社の起源である。後に、行基菩薩登拝され八所権現の本地の尊像を彫刻し、一堂を建て加弥吉利堂(カヤキリドウ)と名付けられた。
これが今の馬頭観世音の前身である。
桓武天皇延暦年中征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の折に参拝し戦勝を祈り、凱旋後平城天皇の大同元年(八〇六)にその報賽として八所権現の本宮と加弥吉利堂を再建した。
小菅神社由来記によると、桓武天皇の御代に勅使鷲尾中将元隆が、東夷退治の祈願使として下向されたと伝えられ、それより平城・嵯峨両天皇(八〇六~八二二)の勅願所となった。更に元隆寺を創立して、金堂・講堂・三重塔・仁王門・鐘楼等建築し、続いて上・中・下の院三十六坊を完成し、広壮麗美を極め盛時は修験者僧侶三百余名居たと云われている。
永禄年中(一一六〇)小菅地域は後白河法皇の奇進により京都禅林寺(若王子神社)の庄園に属し、戸隠・飯縄と並んで修験の道場として著名であった。
建久八年(一一九八)源頼朝公が善光寺参詣の折、當山にも参拝され社領七百貫文を寄進された。
南北朝時代、正平十一年(一三五七)小菅寺合戦が有り岳南(中野)地方に勢力のあった高梨氏(北朝武家方)が當山に拠守したが、岳北地方に勢力があった市河氏(南朝宮方)が大菅口より攻め入り勝利した。小菅寺は市河氏に属したと云われる。




