北野天神社キタノテンジンジャ

挿絵

鎮座地

〒359-1147 埼玉県サイタマケン所沢市トコロザワシ小手指元町コテサシモトマチ3-28-44

  • 投稿者飛熊Z
    (125件)
    投稿日:訪問日:
    評価:5 “小手指元町・北野天神社”

    社名は、正式には物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。

    この三社を合殿に祀るところから、総称として北野天神社と呼ばれています。

    物部天神社・國渭地祇神社は、景行天皇の御代日本武尊が、天神の櫛玉饒速日命と地祇の八千矛神をお祀りしました。共に延喜式内社です。

    天満天神社は、長徳元年(一条天皇の御代)に、菅公五世の孫、武蔵国司 菅原修成が勅命を奉じて、京都の北野天満宮より菅公の御分霊を関東地方以東で最初に勧請しましたので、「坂東第一北野天満宮」と定められたといわれています。

    この時からこの地を北野と呼ぶようになりました。

    源頼義・義家公が奥州追討の宿願成就のため、境内に総社を建立しました。

    建久6年(1195)9月19日に源頼朝公が正八幡宮を勧請し、社殿を全て修造し、新たに延喜式内の諸神を祀った諸神堂を建立しました。

    この時の大宮司は上毛野元重、社領は頼朝公より二百貫文増加され、合わせて二千二百貫文となりました。

    建武・延元(1334~1340)の戦乱にて兵火に罹り、延文元年(1356)足利尊氏が境内の諸社を再建しましたが、再び戦乱により廃燼に化してしまいました。

    その後、前田利家が社殿を再興。菅原道真公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金200枚を献納し、梅1本を献裁しました。「大納言の梅」として境内に現存しています。

    天正19(1591)年、徳川家康より、朱印地六十石を賜り、境内に桜の木を1本植えられました。

    家康は宮司の栗原右左衛門を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じました。

    慶長13(1608)年には大久保石見守が総社を造営しました。

    境内も現在よりはるかに広く、天保(1836)年間に描かれた「江戸名所図会」によりますと、東西及び北側に25社描写されています。