河津カワヅ八幡神社ハチマンジンジャ

挿絵

御祭神

[主神]
天兒屋根命アメノコヤネノミコト
[合祀]
河津三郎祐泰カワヅサブロウスケヤス
曽我十郎祐成ソガノジュウロウスケナリ
曽我五郎時政ソガゴロウトキムネ
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口伝 全1件

平均評価(1件中): 4.5
  • 投稿者かかし
    (92件)
    投稿日:訪問日:
    評価:4.5“河津八幡神社”

    ★後世に残る三大仇討ちのひとつ★

    平安時代河津三郎と言う河津の領主がこの場所に館を構えておりました
    この神社にはその三郎及び兄弟が祀られています

    ではなぜその親子が祀られるようになったのでしょう

    それはそれはこの親子が「赤穂事件」「鍵屋の辻の決闘」に並ぶ日本三大仇討ちの重要登場人物だからだそうです

    ▲▽▲日本三大仇討ちのひとつ 曽我兄弟仇討ち▲▽▲

    事件の発端は、伊東祐親/スケチカ(曽我兄弟の祖父)が工藤祐経/スケツネ(曽我兄弟の叔父)の領地を奪った事で、工藤が部下を使い祐親を暗殺しようとした際、誤って祐親の息子河津三郎を射抜いて殺してしまった事

    幼少期に父を亡くした三郎の息子たちは成人した後父の仇を討つ事を決意しました

    仇討ちは駿河国富士野にて頼朝が行った富士の巻狩りの最中に決行され、工藤結経の陣屋に夜半に討入した兄弟は見事本懐をとげました

    兄弟はその後、頼朝の尋問を受けましたが、最終的に弟の五郎時致/トキムネ(幼名箱王丸)(20歳)は討死、兄の十郎裕成/スケナリ(幼名一万丸)(22歳)も捉えられ即日処刑されました

    ですがこの仇討ちは、武士社会において「仇討ちの模範」とされ、日本の武士道に深い影響を与えます

    『曽我物語』や江戸時代の演劇などで語り継がれ、現在でも日本三大仇討ちの一つとして広く知られるようになりました


    境内にはいざ仇討ちを決行する勇敢な兄弟の像がたっています

    ▲▽▲力試しの手玉石▲▽▲
    河津三郎は相撲の名手もあり、相撲四十八手の一つ「河津掛け」の考案者ともされています

    そんな三郎が日夜、相撲の鍛錬に用いたとされる「手玉石』かここ河津八幡神社に残されています

    ちなみ手玉石とは「かるく手玉にとる」からきているみたいですよ
    (。-∀-) ニヒ

    その鍛錬の様子は、手玉石の前にある河津出身の影刻家後藤白童氏作の像『河津三郎力石』でうかがうことができます

    なお、題字は昭和の名横網双葉山の書です

    ▲▽▲境内社の秋葉神社▲▽▲
    本殿右奥に摂社として谷津秋葉神社が鎮座しています

    案内によると江戸時代この辺りが大火に見舞われ実に村の1/3が焼失したことから、防火の神様秋葉権現を勧請(神様を招き入れる事)したようです

    ちなみにこの神様は江戸の大火の際も江戸に呼ばれ、その後その地は "秋葉原" になっています

鎮座地

〒413-0515 静岡県シズオカケン賀茂郡河津町カモグン カワヅチョウ谷津ヤツ375

付近の神社

御作法